藤沢周『箱崎ジャンクション』

maggot2004-09-03

過去を背負ったタクシードライバー室田と川上。二人はお互いに入れ替わることで、自分自身では決着をつけることができなかった過去へ決着をつけようとする。
前半はまるで首都高の箱崎ジャンクションの渋滞につかまったかのようにかったるいが、中盤からがぜんスピード感が出てくる。そして谷町ジャンクションでのスピンへ。最果てにたどりついたはずなのに、「果てがない」
ところで藤沢周にしても花村萬月にしても、たぶんいまや原稿用紙に向かって書きこんでるんじゃなくて、PCに打ち込んでるんだろう。「蹲る」「燻す」「蟠る」「眩暈」「饐えた」「綻んだ雲」など、ちょっと普通っぽくない言語表現が目立ちすぎる。容易に漢字変換できることが逆に奇異なものを感じさせる。きっと漢字読めないの続出だろうな。
  (2003 文藝春秋)

藤原新也『風のフリュート』(1998 集英社)

maggot2004-09-02

藤原新也自身の小説『ディングルの入江』からごく少しだけ抜粋された文章がはさまった写真集。写真と文章そのものの直接の関連性はないが、冬のアイルランド、それもヨーロッパのもっとも西に位置するディングル半島を旅したときのもの。
ところでディングルってどこなのか、ボク自身、これを読む(見る)まで知らなかった。上に「ヨーロッパのもっとも西に位置」と書いているけど、さっき調べたとこ。最果てだろうってことは容易に想像できる。《ディングル》でググってみたら意外とたくさんヒットする。ぱらぱらと見ていると、日本からもけっこう多くの「観光客」が出かけている。そして「観光客」として写した写真がいくつも見られる。
旅人として最果てを見るのか、観光客として見るのか。もちろん藤原新也は前者としてとらえようとしているのだけれど、果たしてそれが正解なのか。受ける側としては、当然、観光客が見たものより旅人が見たもののほうが、写真の上手い下手は別にして、おもしろいのだが、ディングルに対する藤原新也としての固定観念を見せられているようで妙な違和感を感じたのも事実。藤原新也が表現したものだから、それも当然といってしまえばそれまでなんだけどね。

(単行本)
(集英社文庫)

金原ひとみ『アッシュベイビー』

maggot2004-08-26

きゃはっ、ちょっと引用が長すぎたか。あ、でもこの部分の疾走感はむちゃくちゃに気持ちがいいんだもん。止まらない、止まらない。たぶんね、書きだしたら止まらなかったんだと思う。だから読みだしたら(写しだしたら)止まらないのだ。
きっとな、処女作の『蛇にピアス』のほうが世間の評価はいいでしょ。でもね、この疾走感がこの『アッシュベイビー』を全編を通して支えているんだと思う。
そしてこれも物議を醸すんだろな。ことばの使い方なんてのはもうむちゃくちゃだし、チンコ・マンコがポンポン飛び出すし、眉を顰めてるのが容易に想像できるってもの。確実に学校推薦図書にはならないだろうけれど、だからこそ学校推薦図書になるべき。
ちなみにボクはそう期待してわけじゃなくて、ハンス・ベルメールのカバーにつられて買ってしまったんだけど、いわゆるジャケ買いね。ジャケ買いって正解の時多いな。

外は白み始めていて、私はとりあえずタバコに火を点けた。窓を開けると冷たい風が入ってきて、体中がその冷たさに反応する。寒い、寒い、寒い、という信号を吐き出す。だから何だっつーんだよ。だから何だよ。私に何しろっつーんだよ。窓を閉めろっつってんだよ。うるせえ。お前がタバコを吸いたがるからタバコを吸ってやってるんだよ。私はタバコなんて吸いたくないんだよ。ただお前が欲しがるから吸ってるだけなんだよ。わかってんのか? バカ野郎。窓を閉めたいんなら自分で閉めろポケ。お前が私に勝てるはずねえんだよ。どうしても寒くて仕方ないってんなら鳥肌でも立てて私が窓を閉めるのを待ってな。ガタガタ騒ぐとお前ごと殺しちまうぞ。殺すぞコラ。お前一人殺すぐらいわけねえんだぞクソ。お前をファックして殺しちまう事だって出来るんだぞ。膣にナイフを突っ込んで中をかき回す事だって出来るんだぞ。お前の腹に包丁を突き立てて臓腑を引きずり出す事だって出来るんだぞ。電車に礫かれて何もかもぐっちゃぐちゃに出来るんだぞ。お前なんかクソだクソ。お前が寒いって事が私の思考を一ミリたりとも動かす事はないって事だ。お前が死のうとお前が吐こうとお前が泣こうと私には関係のない事だ。私はお前を簡単に殺す事が出来る傍観者なんだぞ。もう、通り魔みたいなノリで簡単に殺してやるよ。「ムカついたから」って理由で殺してやる。お前なんかこの世にいらない。お前なんかただ私の思うように動いて私の食いたいモノを食ってればいいんだ。殺してやったらお前は笑うのか? 多分笑うんだろうな。私に殺されたらお前は笑うんだろう。お前が笑ってるのを見て私はもっと笑ってやるよ。何てったってお前は私なんだから。大体お前が生きてる事自体がとってもおかしい事なんだよ。だって私はいつだって殺せるのにお前は生きてる。今まで私の気が向かなかった事の方がおかしい。今までお前を殺そうと思えばいつだって殺す事が出来たわけで、二十二年間それが一度もなされなかったのはとってもラッキーな事なんだぞ。お前は今お前が生きてられる事を幸せに思え。バカ野郎。生きてるって事がどういう事なのかお前の舌っ足らずな思考で言ってみな。何黙ってんだよ。お前何もわかんねえんだろ。どうせお前は何もわかんねえんだよ。私がいなきゃ何も出来ないくせに。何鳥肌立てて窓を閉めろなんて言ってやがんだクソが。クソだクソ。お前なんかクソなんだから肥料にされて撒かれちまえ。お前の事みんなが臭いって思ってんぞ。クソはクソらしくクソしてればいいんだよクソ。きええー。私は叫んで昨日オレンジを食べた時に使った果物ナイフをつかんで左の内腿に突き立てた。私の肉体が反乱を起こした。一揆だ。あ、でも、精神が肉体を支配しているのだとしたら私は私の精神にも肉体にも反乱をおこされたって事になるのだろうか。どっちでもいい。ただ、今私は果物ナイフを抜いた方がいいのか、それとも突き刺したまま病院に行った方がいいのか、とても迷っている。いやいや、神経とかやられてたら歩けないだろ。っつーか、私大丈夫なのか? 一時の気の迷いでこんな事しちゃって、大丈夫なわけ? うーん、大丈夫なわけないし。どうしよう。ホクトに救急車呼んでもらうのもちょっと、っつーかかなり間抜けだし、かと言って自分で救急車とかタクシー呼ぶのも間抜けだし。まあ、いいや。どうせ私はなにやったって間抜けなんだから。死ねやクソ、私はそう言うと果物ナイフを引き抜いた。勢い良く飛び出した血を顔面にくらって、私は面食らった。血を吐く傷口なんて、マンコみたいだ。鳴呼、マンコ誕生。なんて考えていたら、ベッドのシーツがどんどん赤くなっていった。ああ、いいね。とっても綺麗。この赤が私の体に流れていたなんて、想像出来ないよ。とっても綺麗だよ。私、血だけならこんなに綺麗なのに、どうして私はこんなに汚いんだろう。どうしてこんなに汚くてバカなんだろう。どうして私は数式が解けないのだろう。どうして私は古典が苦手なのだろう。どうして私は人の心が読めないのだろう。私を愛するモノなんて何もないと知ってしまった時、食欲や物欲や情欲や私に関する全てのモノが私を裏切ったような気がする。最初から裏切られてるのかもしれない。いや、裏切るも何も私は最初から誰にも求められてないし、誰からも求められてないし、誰からも求められてないのかもしれないし、本当は誰からも求められていないのかもしれない。お願いだから誰か求めてよ。誰でもいいからさ。でもやっぱちょっとオヤジは勘弁だけど。でも誰でもいいよ。本当に誰でもいい。誰でもいい。求めてよ。お願いだから、大丈夫なの? って心配してよ。心配してよ。血を流す私を心配してよ。ナイフを突き刺す私を心配してよ。どんな心配でもいいから。どんな心配の仕方をしても構わないから。どんな言葉でもいいから、私にかけてよ。いいよ。わかったよ。もういいよ。精子でいいからかけてよ。私の顔面にぶっかけてよ。誰でもいいから誰か私を誰か愛してよ誰か愛してよ誰か求めてよ誰でもいいから。何も文句は言わないのよ。私が今までに文句を言った事がある? あったなら悪かったわよ。ていうかあるわよ。私は文句しか言わないわよ。でも私はずっと求めてもらいたくて仕方なかったのよ。これからもきっとずっとどうしようもないのよ。そうよ私はどうしようもないの。どうしようもなく誰かを求めてるのよ。とにかく私を愛して欲しいの。他の誰でもない私をね。私だけよ。私だけ愛して欲しいの。私以外の誰かを愛するなんておかしい。私以外の誰を愛すっていうの? 私以外に愛する人がいるとするなら神だけよ。神と私以外は絶対に愛す価値のない人間だから。涙を流してしまってとても醜い私だけど、言わせてもらう。もういい。私はもう愛してもらわなくていい。もう愛さないでちょうだい。ていうか愛すな。愛されるなんて私には荷が重すぎる。私なんて愛されるに値しない。私なんていらない人間だし。別に愛さなくていい。求めなくていい。何も求めないでいい。私の事なんか求めなくていい。ただ、ただ私にほんの少しでもいいから興味を持ってちょうだい。私だけに、いや、私だけでなくていい。多くの興味を持っ事柄の中で私に、たった一ミリでもいいから、興味を持って欲しい。私は本当に、誰からも興味を持たれない人間みたいだから、とにかく誰でもいいから興味を持って。ただの興味でいいの。単なる興味でいいの。興味なんていくらでもあるでしよ。その一ミリを私にちょうだいって言ってるの。私だけじゃなくていいって言ってんの。何だつていいの。何だっていい。私に関する事なら何でもいい。私に関する事でいい。私に関する事に興味を持ってよ。私私って、とっても私私してしまつて申し訳ないけどさ。私は私が大好きなんだよ。私以外の事に何も興味はないんだよ。申し訳ないけどさ、私は私って言葉が大好きなんだよ。ただ私が自分のゲル状態を確保するために私私言ってんだよ。それがないって事はつまり、生きてないっていうのと同じ事なんだから。
「うう」
 私は唸って泣いていた。脚が痛いような、何か悲しいような、そんな気がした。
「ううー」
 大きく唸ると、何となくスッキリした。そうだ。明日は誰かとセックスしよう。そう思った。

(2004 集英社

江角マキコ『燃えるゴミ』(1997 角川書店)

maggot2004-07-25

これまでの江角をモデルにした写真(篠山紀信など)に、彼女の「燃えるゴミ」という「独り言のようにノートに書き、人と向き合うことから逃げて」いたことばを集めたもの。江角なら、もっとおかしなことを書いててもいいのに、意外とまとも(笑) 父親を突然亡くした体験からか、死生観がつきまとってる。それが真当な方をむいてしまっていてつまらない。やっぱりタレント本の域をでませんか。


 

アンドレ・ブルトン『シュルレアリスム宣言 / 溶ける魚』

シュルレアリスムって、いくら歳をとったからってわかるもんでもないらしいw
新聞などから適当に言葉を切り抜いてきて、それをアットランダムに並べ替えてみる。と聞いて、自分でもやってみたことがある。30年も前の大学生の頃に。すっかり『ダダ宣言』だと思ってたけど、『シュルレアリスム宣言』だったのだ。
それほどに曖昧な記憶になってしまうのも、何のことやらようわからん、つまりシュールなことが書かれてある。さっぱり頭に残ってこない。だが、不思議と読み続けることができるのは、たぶん、ふつうの本を読むのとは異なる脳の領域で処理されてしまうからなのじゃないか。あるいは、処理せざるを得ない、シュールの本領じゃないのかということが、またはそのような領域に踏み入って行こうというのが、シュルレアリスム宣言なのだということが、かすかに脳の本来の思考領域にフィードバックされてくる。

私たちはいまなお論理の支配下に生きている。これこそが、もちろん、私のいいおよぼうとしていたことである。けれども論理的方法は、こんにちではもはや、二義的関心しかない問題の解決に適用されているだけである。いまだに流行している絶対的な合理主義が、私たちの経験に直接依存する事実をしか考慮することをゆるさないのである。


 きみにもやがてわかるだろう、私がもはや首を吊るための雨にもあたいしなくなるとき ─ 森のはずれの、青い星がまだ自分の役目をはたしていない場所で、寒気がその両手をおしつけながら、私に忠実でいてくれるだろうすべての女たちに、だが私と知りあってもいない女たちに、こういいにくるときがくれば。「あれは草の肩章と黒い飾りカフスをつけたりっぱな船長であったし、おそらく命のために命を投げうつ技師でもあった。
 (中略)
そして、きみは地球の臓腑のなかで見るだろう、空の突撃サーベルにおびやかされているいまの私よりも生き生きとした私を見るだろう。きみは私を、これまで行くことのできなかったところまでつれてゆくだろうし、きみの両腕は、あのかわいらしい獣たちの、白貂たちのわめきたてる洞窟になるだろう。きみは私をただいちどの溜息にしてしまい、その溜息が地上のロビンソンたちへめぐってつづけられることだろう。

 

 http://www.creative.net/~alang/lit/surreal/writers.sht

花輪和一『朱雀門』

maggot2004-07-19

胸におダニ様を飼い育てる『崇親院日記』や、尻に尻狗が取り憑いた『狗尻』、この突拍子もない発想は花輪をおいてほかにないだろ。それがまことしやかに語って(描いて)しまうのが、これまた花輪ならでこそ。どこかでにやっと笑ってしまってるのだけれど、「このような日には皆で森の奥に神に会いに行きます」とページをめくると見開きででーんとくるんだから。『虫剣虫鏡』で国司の妻の顔についた虫の精緻さときたら、これまた花輪。中世の『今昔物語』や民話からひっぱては来ているがすっかり花輪の世界に引っ張り込んでいる。
朱雀門』(1986 日本文芸社)から「不倫草」を除く7編、『猫谷』(1989 青林堂)から2編、あと1編で再構成。

(1998 青林工藝舎)

チャールズ・ブコウスキー『ブコウスキーの酔いどれ紀行』

ブコウスキーはハチャメチャでおもろいという話は聞いていた。前からなんか読もうと思っていた。で、手に取ってしまったのがこの『酔いどれ紀行』。たぶんブコウスキーで最初に読むべき本ではないのかもしれない。
もっともっと難解きわまりないのかと予想していたが、予想に反してずっとまとも。パリの自分の書いた詩の朗読会でもみくちゃになった話や、ブコウスキーと彼女のリンダ・リーとが故国ドイツを旅行して、自分の生まれた家にも訪ねていったりする話は、とても興味深い。
同行したマイケル・モントフォートの写真がたくさんアップされてる。なかでもシュヴェツィンゲンの城の庭を二人で歩いている写真が好き。

幸運はほかにもあった。素晴らしい女性だ。五十六年かかって遂にリンダと巡り合ったが。待つだけのことはあった。たくさんの女たちと知り合ってこそ、男は一人の素晴らしい女性を見つけ出すことができる。運がよければ、そんな女性が待ち受けている。人生で最初に出会った女性、あるいは二番目に出会った女性と落ち着いてしまう男など、世間知らずもはなはだしい。女とはどういうものか、まったくわかっていないと言える。男はちゃんとしたコースを辿らねばならず、それは何も女と一緒に寝て、一度か二度セックスをするということを意味するのではない。何か月も何年も女と一緒に暮らしてみるということだ。それを恐れる男たちのことをわたしは責めたりしない。一緒に暮らすというのは、魂をいつ奪われてもいいような状態にすることだからだ。もちろん、男たちの中には、ただ何となく女性と一緒に暮らし、あきらめ、精いっぱいのことはやっているんだと言う者もいる。そうした男たちは山ほどいて、実際、ほとんどの者たちは休戦の白旗をあげて暮らしている。全然うまくいかないとはっきりわかっていながら、どうでもいいや、何とか間に合わせよう、また同じようなことを繰り返してもしようがない、それよりも今夜のテレビは何か面白いものがあるかな? といった調子なのだ。

 
(河出文庫)