三島由紀夫『音楽』(1964 婦人公論)

1972年にATGで増村保造監督で映画化されているのに、どうも観てないなぁ。実相寺昭雄監督の『哥』とごっちゃになってる。ひょっとしたら観たかも
「音楽」が聞こえない=オルガズムを感じない麗子の治療に関わった精神科医師を中心に話が進む。それにバタイユがらみですね。話としては重いのだけれど、展開は、さすが三島由紀夫というわけで、ぐいぐい読み進めた。ってもボク、遅読なので3日かかってんだけど、1日で読めるね。悩めるあなたに読ませたい。

 酒場の女、兄の情婦、あの下品なガラガラ声の女は、そこで、一人の證人に変貌し、世間のあらゆる禁止と非難と挑發を代表してゐた。兄は司祭であり、麗子は無垢な処女の巫女だつた。そこで行はれようとしてゐる神聖なしかし怖ろしい儀式は、兄と麗子だけでできるものではなく、どうしても苛酷な目撃者の目によつて完成されるのだつた。
 次第にあのせまいアパートの一室は、小さな神殿の奥の間のやうに思ひなされ、神秘的な光りがどこかからさし入つて、三人の登場人物を照らし出してゐた。
 兄の企ては、自分が世話になつてゐる女を證人に仕立て、ふつうの月並みな男女關係の嫉妬にじたばたしてゐるこの女に、正に世俗の常識をこえた、次元のちがふ性の神聖さの領域を目撃させてやることだつた。麗子も形だけは拒みこそすれ、無意識のうちに、兄の亂醉の底にある企圖を見抜き、それに同意してゐた。兄の手がスカートに触れ、麗子が固く目を閉ぢたとき、彼女はあんなに遠く離れながらたえず身近に感じていた兄その人の、若々しい體臭をかいだ。……
 證人は世間を背に負つて、毒々しい目で監視してゐたのだが、いよいよ兄が麗子を犯さうとしたとき、證人の勝利が正に確立されようとしながら、次の瞬間にはそれが崩れたのだつた。『ここで、私の目の前で愛し合はうとしてゐるのは、本当の兄妹だ』といふ直感が彼女に生れた。あばずれの彼女の體も恐怖に慄へた。そしてあわてて手をさしのべて、二人を止めようとした。しかしすでに、兄と麗子の目には他人の世界は滅び、證人の女一人を遠くこの世にのこして、無限の深い淵へ沈んで行きつつあつた。證人の女はその底を見て、目がくらみ、立ちすくんだ。止めようとしても、すでに時は遅いことを彼女は感じた。……
 これは、神殿のほの明りの中でだけ起る奇蹟で、證人の女が世間へ戻つて、誰に告げても信じられることではない。證人の女は、奇蹟と世間の間にあつて、一人ぼつちになつてしまふだけなのだ。しかし彼女の役割は重要で、たとへ誰にも信じられず、自分の目すら信じられなくても、奇蹟は證人を要求するのだ。