アンドレ・ブルトン『シュルレアリスム宣言 / 溶ける魚』

シュルレアリスムって、いくら歳をとったからってわかるもんでもないらしいw
新聞などから適当に言葉を切り抜いてきて、それをアットランダムに並べ替えてみる。と聞いて、自分でもやってみたことがある。30年も前の大学生の頃に。すっかり『ダダ宣言』だと思ってたけど、『シュルレアリスム宣言』だったのだ。
それほどに曖昧な記憶になってしまうのも、何のことやらようわからん、つまりシュールなことが書かれてある。さっぱり頭に残ってこない。だが、不思議と読み続けることができるのは、たぶん、ふつうの本を読むのとは異なる脳の領域で処理されてしまうからなのじゃないか。あるいは、処理せざるを得ない、シュールの本領じゃないのかということが、またはそのような領域に踏み入って行こうというのが、シュルレアリスム宣言なのだということが、かすかに脳の本来の思考領域にフィードバックされてくる。

私たちはいまなお論理の支配下に生きている。これこそが、もちろん、私のいいおよぼうとしていたことである。けれども論理的方法は、こんにちではもはや、二義的関心しかない問題の解決に適用されているだけである。いまだに流行している絶対的な合理主義が、私たちの経験に直接依存する事実をしか考慮することをゆるさないのである。


 きみにもやがてわかるだろう、私がもはや首を吊るための雨にもあたいしなくなるとき ─ 森のはずれの、青い星がまだ自分の役目をはたしていない場所で、寒気がその両手をおしつけながら、私に忠実でいてくれるだろうすべての女たちに、だが私と知りあってもいない女たちに、こういいにくるときがくれば。「あれは草の肩章と黒い飾りカフスをつけたりっぱな船長であったし、おそらく命のために命を投げうつ技師でもあった。
 (中略)
そして、きみは地球の臓腑のなかで見るだろう、空の突撃サーベルにおびやかされているいまの私よりも生き生きとした私を見るだろう。きみは私を、これまで行くことのできなかったところまでつれてゆくだろうし、きみの両腕は、あのかわいらしい獣たちの、白貂たちのわめきたてる洞窟になるだろう。きみは私をただいちどの溜息にしてしまい、その溜息が地上のロビンソンたちへめぐってつづけられることだろう。

 

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