三島由紀夫『午後の曳航』(1963 講談社)

 ルイス・ジョン・カルリーノ監督、サラ・マイルズ、クリス・クリストファーソン主演で、日米合作で1978年に映画化されたが、無理だろ。だいたい能天気なアメリカ映画に三島を表現できるわけないでしょw ボクの父親が観てきて「つまらんかった」と言ってたのが記憶にある。あ、ボクは観てません。映画の原作にすごくなりそうだけれど、上っつらをなぞるだけで滑ってしまうだろうことは目に見えている。それくらいこの後の三島由紀夫を抽き出すターニングポイントになった作品じゃないだろか。多く語るより、引用部分、とくに2つめ読めば、わかるでしょ。

 叉、彼は人生でただ一度だけ曾ふ無上の女との間には必ず死が介在して、二人ともそれと知らずに、それによつて宿命的に惹きつけられる、といふ彼の甘美な觀念、彼の脳裡にわけもなく育くまれてきた理想的な愛の形式についても語らなかった。かういふパセティックな夢は、おそらく流行歌の誇張だつたらう。が、いつしかこの夢は鞏固なものになり、彼の頭の中で、海の潮の暗い情念を、沖から寄せる海嘯の叫び声や、高まつて高まつて碎ける波の挫折や、どこまでも追ひかけてくる滿潮の暗い力や、…さういふものすべてと絡まり合ひ、融け合はされた。
 龍二の目の前にゐる女がたしかにそれだと思つた。しかし口に出して言ふことはできなかつた。
 彼が久しく誰にも言はずに夢みてきたこの大がかりな夢想のうちでは、彼が男らしさの極致にをり、女は女らしさの極致にゐて、お互に世界の果てから來て偶然にめぐり合ひ、死が彼らを結びつけるのだつた。螢の光りや銅鑼などの安つぽい別離や、薄なさけの船員の戀なんぞから遠く離れて、彼らは人間のまだ誰も行つたことのない心の大海溝の奥底に下りてゆく筈だつた。
 …が、こんなきちがひじみた考への片鱗をも、彼は房子に語ることができなかつた。その代りに、こんなことを言つた。
「永い航海の間には、賄ひ部屋へ一寸寄つて、そこに大根や蕪の葉がちらと見えるでせう。さういふ縁が、ひどく心にしみるものなんです。實際、そんなちつぽけな縁を禮讃したくなるんです」
「さうですね。わかるやうな気がするわ」
 


  
このチャンスをのがしたら、僕たちは人間の自由が命ずる最上のこと、世界の虚無を?めるためにぜひとも必要なことを、自分の命と引換への覺悟がなければ出來なくなってしまふんだ。死刑執行人の僕たちが命を賭けるなんて全然不合理なことだものな。
 今を失つたら、僕たちはもう一生、盗みも殺人も、人間の自由を證明する行為は何一つ出來なくなつてしまふんだ。お座なりとおべんちやらと、蔭口と服從と、妥協と恐怖の中に、來る日も來る日もびくびくしながら、隣り近所に目を配つて、鼠の一生を送るやうになるんだ。それから結婚して、子供を作つて、世の中でいちばん醜惡な父親といふものになるんだよ。
 血が必要なんだ! 人間の血が! さうしなくちや、この空つぽの世界は蒼ざめて枯れ果ててしまふんだ。僕たちはあの男の生きのいい血を絞り取つて、死にかけてゐる宇宙、死にかけてゐる空、死にかけてゐる森、死にかけてゐる大地に輸血してやらなくちやいけないんだ。
 今だ! 今だ! 今だ!