中上健次『赫髪』(「文藝」 1978.5)

 宮下順子石橋蓮司で、神代辰巳監督によって映画化された『赫い髪の女』は日活ロマンポルノ名作中の名作。まごれびゅを書く前に読んでみて、再度読み直してみた。そこで「熊野という風土」などと書いているけれど、この『赫髪』そのものは中上の中にあってそう表面きってにおってくるわけでない。それよりも女と男だけのにおいのほうが強烈。そして映画の赤っぽい光のせいもあるのだけれど、赤い髪のリアリティに胸がざわざわとする。つまり欲情してしまう。この情感にどっぷり浸ってしまう自分が怖い。

 女とさっき部屋を出るまで互いに体をなめあい撫ぜ合い交接していたのに、女は、連れて入ったスナックで光造の耳に声をひそめて、「またしたなってきた」と言った。光造は「よっしゃ」と返事をして女に「あとで時間かけてゆっくりやったるからな」と言う。光造が仕事からもどって部屋に入ると女は裸で寝ていた事があった。女はうるんだ眼をしていた。光造は、一瞬、赤い髪の女が光造ではなく別の男を部屋にひき入れて交接ったと思ったが、それをなじる方法が分からず、人が外で仕事をしているのに飯の用意もしていない、飯も作らない女などに用はない、叩き出してやると言い、蒲団をひきはがして女が裸に光造の脱ぎ捨てたブリーフをまとっているのを知って狼狽した。赤い髪の女は起きあがり顔に手を当て体をふるわせて泣いた。
 光造は自分の部屋が女にすっかり占領されてしまい、女のにおいが充満しているのに気づいた。それは決して悪い事ではなかった。部屋が野球部の部室のようなにおいや建設会社の事務所の無味乾燥な埃っぽいにおいに充満しているより、二十八歳なら女のにおいがするのは当然の事だった。女の女陰から分泌する粘液、赤い髪、女が買ってきた化粧品の類、マニキュアの除光液、それらのにおいが充満した。それはいつもクラッカーのようなにおいになって鼻にあった。


 光造が女陰に指をあておしひろげると、「そこに」と女は間のびした声で言った。女は光造の体にのしかかろうとして足に足をからめた。光造にまたがったまま乳房を光造の胸にこすりつけるように体を倒して耳に息を吹きかけ「足が反りくりかえるくらいの気持ちやった」と言う。光造が色艶の悪い髪が愛しいと撫ぜると窓の外を見て「ああ」と首をふり、「雨降ってるから今日もこんな事しておれるねえ。いつまでも雨ばっかし降らへんけど」と言った。唇を光造の喉首に圧し当てた。赤い髪の女の唇が唾液で濡れて非道く温い、と光造は思った。  赫い髪の女は美しい。

中上健次『かげろう』 (「群像」1979.1)

 この「かげろう」というのは「蜉蝣」なんだろな。と、いうのは森山大道の写真集に『蜉蝣』というのがあったから。森山大道にしては珍しい裸の写真集で妙にこの『かげろう』とかぶる。読んでいると『蜉蝣』の写真が思い起される。ひたすら、底の見えない下降感、息が詰まる閉塞感
森山大道『蜉蝣』より

 女は乾きに耐えかねていたように、広文の唾液を飲んだ。その女は口いっぱいにほおばった舌が広文のもう一本持っていた性器だと言うように舌をからめ力を籠めて吸い、性器が奥深く入る度に声をつまらせる。その声にあおられたように、広文は、乳房を揉み、犬さえそんなふうな仕草はしないほど自分の体の中にあるわいせつな心そのものの固い塊になって、声をつまらせ、身をよじり快楽に体が熱を帯び赤く光っているような女の体の中に入っていこうとして、腰を動かす。


「痛いのか?」と訊く。
 女は首を振り、それから思いついたように顔に笑をつくり、「あんなあ、教えたろか」と腕を広文の腕にからめ、それから「女て強いんよ」と言う。


 そのまだけいれんしている女の腕をそろえさせ広文はベルトでぐるぐる巻いて縛り上げた。横たわったままの女の兩脚を、夏の盆踊りに使った浴衣の帯で縛った。硝子窓のみならず雨戸も閉め、玄関の内鍵も落とし、広文はそれから素裸になった。女が鵜殿の実家にもどる口実をつけ、別れた男のもとにもどろうと思うなら、女にわいせつの味を教え込んでおいてやる、広文はそう思った。
 広文は女の顔の前に立ち、ブラウスとだらしなくはだけたスカートをつけたままの女の見ひらいた眼、快楽の波が引いて何がはじまるのか濡れて待ち受ける女陰のような口に、いっぱいあふれるように、痛みのような熱さえ堪え、放尿した。女は焼け焦げでもするように声をあげる。女の濡れて臭いを放つブラウスをひきちぎり、スカートをひきちぎった。身動きの出来ない女の体をあおむけに転がし、自分の尿の臭いのついた女の乳房を力いっぱい吸い、それでも膝を割って広文の性器を中にむかえ入れようとする女陰に、深々と入れ尻に指を入れた。

中上健次『鷹を飼う家』(「すばる」 1977.2)

  古座の「水が膨れ上がり、壁のように立つ」海に迫られる閉塞感の中でケモノとならざるを得ない人間。『鳳仙花』のプロトタイプ

 シノは嫁いでから今日の今日まで、鷹の餌の腐肉のにおい糞のにおいによくがまんしたと思った。並の女では耐えられないと思った。つわりの時何度も、シノの腹の中で子供が手足を蹴って動きはじめた時、与一と母親とキミヱの三人にどうにかしてくれと言った。鷹の居丈高の眼が不快だった。人間をあなどっている。嘴が不快だった。爪が不快だった。シノは毎日毎日、何かにおびえ、見つめられている気になった。今日の今日、鷹はもう決して禽鳥ではなかった。


キミヱを犯せないのなら、ケモノのキミヱを竹ホウキで打てと言った。打て、打て、とシノは叫んだ。  与一はそのシノの声にそそのかされ、キミヱを打ちすえた。母親はもぞもぞと御言葉をとなえ、涙を目いっぱいに浮かべ、シノの裸を見て、あわてて眼を伏せた。シノは二十一歳だった。体に傷ひとつなかった。母親のひざもとに寝かされひっくり返されたカニのように手足を動かしているタツヲを産んだが、妊娠線もついていなかった。
 キミヱは竹ホウキの跡をつけてぐったりと横になりそれでも眼だけはあけていた。シノはそのキミヱに口移しで水を飲ませた。キミヱは水をシノの口から子供が乳を吸うように飲んだ。与一がそれを見ていら。シノはその素裸の与一を平手で打った。竹ホウキを与一の手から取り上げ、あおむけに寝かせ、腹、胸、性器を竹ホウキで打った。水を飲み、また与一を打った。
 ケモノめ、ケモノめとシノは叫んだ。
 シノはそう打つたびに、与一の体も性器も大きくなっていく気がし、自分が起きあがったケモノに犯される気がした。雨の音がしていた。海の音がしていた。海の水が膨れ上がり、壁のように立つのが分かった。シノは与一の顔を足で踏んだ。

中上健次『水の女』 (「文学界」1978.11)

 浜村龍造のプロトタイプのような富森。《女を明日、浮島にある遊廓に連れていく算段をしていたと気づき、「ええんじゃ、ええんじゃ」と女を抱き寄せ》ることしかできない男。強烈なセックス描写にそそられる以上に、男の悲哀というのも変なんだけど、何かしら腹の底にざわざわとした感触が残る。

「起きてたん」
 と顔をねじり富森に笑をつくる。
「雨やねえ」と女は言い、その女の声に促されるように押しつけた自分の太腿の間から女の尻に手を差し入れ女陰(ほと)に当てようとすると、女は富森の手が動き易いように軽く膝を立てた。富森の顔を確かめようとするように女は顔をさらにねじって、「ずうっと起きてたん」と言った。


ふと何も彼も面白くなくなったと朝から雨戸を閉め切り女を裸にした。女は妙に恥かしがった。家の中を閉め切り日がほとんど射し込まない中で富森が女を引き寄せ乳房を揉みしだき、女の股を大きく広げさせようとすると、女は嫌だという。富森は訝しがり、雨戸をこころもち開けて嫌がる女にわざとそうするように日の光に照らして女陰を見た。女陰が濡れているのがわかった。富森は女陰の開いた桃色の花弁をみながら一瞬、別な男の性器を受け入れるのを想像してむらむらと腹が立った。富森は女をその姿のままにして沼地に入っていくように性器が女のひだとひだをかきわけていく感じを味わいながら体を女にあずけ、女の乳房を舌で嬲った。


「なあ、雨みたいに落ちて来る山蛭に、うちなんかが血を吸われたらどうなるやろか」