中上健次・荒木経惟『物語ソウル』

maggot2003-12-12

 路地はソウルの町にもあった。そしてソウルの路地に龍造が生きていた。ところで中上の小説群はとにかく男が目立つのだが、実のところ女系家族にがしっと支えられている。そしてこの『物語ソウル』でも、龍造の存在を継いでいくのは女なのだった。
 一方、荒木経惟の写真は一切の遊びなし。息詰まるような中上健次荒木経惟の格闘がずしんと重い。そりゃそうだ、世界に大見得はって通用する二人ががっぷり組んでんだから。

ソウルは二時を過ぎると、空は初夏の透きとおった水色なのに、光にかすかに色がつき、それが時間がたつにつれて色濃くなり、ふと気づくと、周囲も建物も街路樹も菫色がかっている。その瞬間から、物の輪郭が闇に溶けかかってしまうまで、女はここが世界の一等美しい夕暮れだと思った。昼を頂点とした市場の建物に反響し、物に増幅されながら、ただ光のかたまりのようにワーンと空に舞い上がっていた音が、透きとおった光から色を取り出し、最初は透明だった色がいくつも微粒子のような光を重ねると、微かに目に見える赤になり、それがなお降りつもりつづけ、桃色になり、菫色になってしまう。ソウルは、確かに都だった。ビルを建てたり、地下鉄の工事で方々を掘りくり返し、赤土が見えても、そうやって夕暮れが訪れると、たとえゴミ屑でさえ菫色に変わり、さらに野ぶどうの色に変わった光を受けて美しい。女はソウルに来て初めて、チマチョゴリが一日のうちに様々に変化する光の色だと気づいたと思い、家に帰るバスに乗り、夕暮れの外を見ながら、行き交う女らがことごとく光のチマチョゴリを着て美しいと思い、韓国の男は誰でもよいからその美しさを、大きな手で抱きとめて欲しいと胸の中でつぶやいた。

(1984 PARCO)