荒木経惟『写真への旅』

maggot2003-12-10

 『写真への旅』(1976 朝日ソノラマ「現代カメラ新書」)を加筆修正
 元は1976年の発刊だから、中に写っているアラーキーのお姿もずいぶん可愛く、髪もけっこう残っている。「私写真」の原型はすでにこのときにあった。

写真とは、ファインダーの中での肉眼戦にすぎない、と言ったが、そのファインダーをとおすことによって、相手がより見え、自分がはっきりと見えてくる。自分自身がレントゲンされてしまうのだ。
 写真行為というものは、自分自身をはっきりと見るための作業である。そうかなあ?
 ニュース写真であろうと、広告写真であろうと、すべて写真は、私写真であると言ってもいい。ちょっと言いすぎかな?。言いすぎだな。だが、私の撮った写真は、すべて私写真である。まーともかく、相手と自分の関係、私現実を複写することが写真なのである。


あれでは、現実からの逃避だ。非現実っぽい画面を作ることが、表現だと思、想しているのではないだろうか。それが"新しい写真"だと思っているのではないだろうか。暗箱や、暗室の中でのオナニー作業。黒っぽい画面へ射精するのでなく、明るい世間に射精しなくてはいけない。
 ともかく「サークルU」は作画意識が強すぎて、「見る」ということに怠慢である。「見せる」ことばかりに気をつかいすぎてはいまいか。


なんだか、東京の中に風景を捜して歩いている自分がイヤになってきて、そんなつまらないことはヤメにしようと決めたのだ。なんだか、自分のための記録、写真でないような気がしたのだ。"街に触れてない"ように感じ出したのだ。
 そして、私は現在、「近所」に触れ歩いている。私の「近所」は、私の風景であり、写真なのだ。

(1996 マガジンハウス)