荒木経惟『荒木経惟文学全集 五 写真指想』

maggot2003-12-02


 韜晦写真論ー「無論100%」
 凡人にかかれば「沈黙は金、雄弁は銀」かもしれないけれど、天才アラーキーの雄弁は白金、回路の日和なのでR。いやぁ、おもしろかったなぁ、400数十ページほぼ一気に読んでしまった。バンパイアなみに俄然インスパイアされちんこで。ますますゲリバラの深みにはまって行くのだ。それでいいのだ。だって天才アラーキなのだから。主に『アラーキズム』、『写真論』などから

20030130 Thu

横須賀功光がくれた花束をちぎって、花で埋めた。子供たちに花で埋められた、母の顔を見て、触れて、冷たくなった頬に触れて、私はカメラをもってこなかったことを後悔した。こんなに、いい顔の母を見たのは、初めてのような気がした。私は凝視した。そこには、現実を越えた、現物があった。まさしく、死景であった。超二流の写真家である私は、写真が撮りたくてしかたがなかった。私は凝視しつづけた。私の肉体がカメラとなって、シャッターをおしつづけていたのであろうか。小石で釘を打つ音は、梅雨のしめった天空に響いた。あれは、音楽だった。

『母の死?あるいは家庭的写真術入門』
(「WORK SHOP」1974年9月1日号)


 写真道楽だった父は、何台ものカメラを残したが、私はその中から、イコンタを父の形見として、それ以来愛用しつづけた。
 そうでなくてもセンチメンタルな写真になってしまうのに、このイコンタで写した写真は、あまりにもセンチメンタルで、静止してしまっていた。

(中略)

 よーするにAにとっては、写真が「物語」であり、写真機が「物語」なのであり、写真行為が「物語」なのである。一枚の写真でもいい、何枚もの写真でもいい、写した写真を写した順にただならべるだけでいいのである。写真はすでに「物語」なのであるから。

『東京写真物語』
(「iS」1988年12月10日号)