石内都『モノクローム』

maggot2003-12-01

 女であるからこその醒めた視点でとらえられた「傷」を突きつけられては「センチメンタル」な男に勝ち目はない。それ以前に勝負にならない、悔しささえ湧き起こってこない。モノクロームの怜悧な刃物。
 石内都自身の『横須賀』『連夜の街』『1・9・4・7』を中心とした写真論、というより写真観。とくに『連夜の街』では女であるからこそ切迫感にぐっとくる。それで納得してたら、女ということに留まらないで、さらに人間を見るというところに到達してしまうんだから、すごいよ。



 自分のからだを刃物で削り落とすのは勇気のいることだ。私にはそんな勇気はないので、せいぜい手の爪でポリポリカリカリと引っ掻くぐらいしか出来ない。
 さっきまでからだの一部だった皮膚を拾って机の上に集める。柔らかで生っぽかったカケラは、もうカラカラに乾いてゴミのようになってしまった。しみじみと形骸化した私の一部だったものを見つめる。それほど違和感は感じられない。それよりもからだのイイカゲンなカタチに感心してしまう。
 簡単にカラダは欠損していき、いつの間にか細胞が増殖して、からだの一部を捏造してしまう。勝手に増えてしまった皮膚のかたまりは、取っても取ってもまた増えて、異形で余分なものがある日ベッタリくっついて離れることはもうない。




 写真を撮りに行った先で話をたくさん聞くのは良いのか悪いのか。もともと記録しようとは思いもよらず、記録とはほど遠いところに私の写真はあった。話を聞けば聞くほど写真を撮る気がしなくなる。正確な史実より、イイカゲンな情報と、イカガワしいうわさ話が性に合っているようだ。自分勝手な思い込みが想像力を刺激する。独断と偏見があればこそ、写真を撮る意欲が湧いてくる。
 連夜の街に史実はいらない。ある日を境に終了した、たった一つの事実だけがあればよい。あとは捨てられ、忘れられて放置されたものの中から、私の好みだけをこっそり拾い集めてカメラにしまい、壁や窓やステンドグラスやタイルを私物化しようと秘かに企んでいた。全体よりも細部、日向より日陰、表より裏、昔の事より今の事、これらも一緒に暗室で、一人ひろげて見ることの楽しみを、この街は用意してくれた。




 八十歳を越えた元遊廓の女将であるお袖さんは、いつ行っても引き戸を開ければ上がり框に座っていた。広々とした玄関の一角に私も座り煙草に火をつけ、彼女と並んで一服する。昔から使っているという煙草盆を私の方へさし出して、東京から来たことを労ってくれる。尋ねることは何もなかった。話をするよりはただ、この家の上がり框に座り、お袖さんと煙草を吸う。ゆっくりと紫の煙の輪が広がり、ここに在る女達が時空を越えて繋がる。私もお袖さんも木華開耶媛も、その裏に掛かっていた写真の中の女達も、すべてが時の流れにうかぶ泡沫のごとく、淡く流れて彼方へと運ばれる。私が誰であるのか彼女達が誰なのか、名前が溶けて消えていく。あとには女のからだの器だけが残されて。
 お袖さんは一日の大半を玄関で過ごしていた。誰、ということもない誰かを待つように入口に向かって座り、今日もまた誰かの一人である私を迎えてくれる。彼女はいつまでも私がくるのを待っていたに違いない。そう、私は写真を撮るのをすっかり止めてしまい、元遊廓の玄関で、上がり框の木の感触と水を打った三和土の静けさの中、木華開耶媛をながめ、彼女と一緒に煙草を吸う、この為だけに名古屋に出かけていたのだから。




 遊廓で女達に貸し出し用に縫われたきものを、何人もの女のからだをつつんだきものをくれると言う。このきものは客を迎える夜装着なのか、それとも彼女達のよそいきなのか。手にした単衣の薄い布地が透き通り、はだかの女の肢体が眼に映る。
 きものの古着は恐い。どこの誰とも知らぬ女が身に纏ったきものには、必ず体臭が籠っている。匂いだけでなく気まで一緒に憑いているから恐いのだ。匂いは陰干ししたり、洗濯すればなんとかなるが、気はそうはいかない。影もかたちも匂いもないので、いわば思い込みだけかもしれないが、私にはその気を強く感じる。気をぬき取らなくては古着は着れない。全身にまとわり付くきものは皮膚のひとつだから、一度着たきものをもらうのは他人の皮膚をもらうのと同じことでもある。
 このきものの出どころははっきりしている。誰が着たのか。もう一つの皮膚を纏うことによって我身を守っていた女達のものである。娼婦は全裸にならないのだから、きものはしっかり彼女達のからだに付着して、素肌を隠す皮膚となる。
 お袖さんは私に女達のきものをのこして逝った。もらい受けてはみたが、どうしていいかわからない。細い絹糸で織られた夏のきものは、その涼しげな薄さがよけいに皮膚に感じられる。

(1993 筑摩書房)