つげ義春『貧困旅行記』

maggot2003-11-30


 不思議なことに、ときに見栄張って分不相応なところで豪遊してみたくなる。そのあとの白じらした自分自身への苛立ち。ところが逆に自虐的に、自分自身を失くしてしまって、《漂泊のこころいまださめず》と下向きのベクトルに身をまかせてみたくもなる。その痛い心情を思いきり掻乱される小編を次々と連ねられると.....

 彼女はバタフライ一つ付けただけで踊ろうとしたが、私は手招きして自分の前に坐らせた。私は舞台のかぶりつきの椅子に掛け、彼女は前に出てきて正座した。間近に彼女の太ももを目の前にして私はそっと触ってみた。すると俄に感情が高ぶり、次に頬ずりをした。彼女はじっとされるがままにしていたが、私は何故かせつなさがこみ上げ、彼女の腰に手を回しすがりつくように抱きしめた。彼女は優しく私の髪をなぜた。舞台に流れる甘いメロディの効果もあったのだろう。私は、
「こうしているだけでいいんだ、こうしていると何となく安心できるんだ」
 と、甘いセリフがすらすらと口をついて出た。そして、
「今夜つき合ってよ」
と云うと、彼女はこくりとうなずいた。

 猫も雄は一度出ていったら戻ってこない。友達の家にいた猫が家を出ていってしまってもうあきらめていたら、ひょっこりその猫に似た小さい猫を二、三匹後ろに連れて歩いているのを見たという。それまでエサにもねぐらにも不自由しなかった雄猫がある日、急にふいといなくなる。そうしてまた別のどこかで新しい生活を始めている。
 何が満たされないわけでもない、何か不自由なことがあるわけでもない、それでも芭蕉のことばを借りれば「漂泊のこころさめやらず」なのだ。「すべてを擲って」ということではない、「すべてを擲つ」からにはそこにはその先にいま以上の価値を見いだしているに違いない。そうではなくて何の価値も見いだせないまま、ときにいまの自分を否定してみたくなるときがある。
 女に言わせれば「男なんて勝手なもんよ」
 短編というか、旅行記が十数編、それもどれも温泉に泊まって、海の幸、山の幸に舌鼓をうってという温泉旅行でない。そういうところにもこの『貧困旅行記』と『つげ義春とぼく』、この二冊がボクの温泉巡りのバイブルと書いたけど、ひたすらに暗い。ははは、つげの描く漫画自体暗いやんねぇ、地からして暗いんだろう、会うたことはないけど。きっと会ってもぼそぼそっとしかしゃべらないで、なんの会話にもならない人だろう、きっと。

一般の行楽客にはとっては、暗い谷間とちっぽけな滝、中津川の川原は殺風景で、これほどつまらぬところはないだろうが、私はここが、とくに滝やお堂がすっかり気に入った。鉱泉業のことはともかくとして、こんな絶望的な場所があるのを発見したのは、なんだか救われるような気がした。

 あ、これってツーリングでだかだか走ってるときによく思うよ。なんでこんなところに人は来ないんだろうって、いや、反対になんでこんなもんにふっと立ち止まってしまってるんだろうって。そういう情景というのかな、ふとなにげない他人にとってはどうでもいいような、なんらの価値もみいだせないところにこだわってみたりして、ひとりほくそえんでみる。でもそんなところに男の原点のようなものを見いだしてしまうのはボクだけではないと思う。そうしてぼそっとどこかの温泉、いや温泉場に現れて、まわりになんの痕跡も残さず去って行く。どこかに男のロマンを感じないだろうか。

98/01/06
(晶文社 1991)