川端康成『眠れる美女』

 若い処女が、処女だぞ、処女!が全裸で眠っているとなりで添い寝をするってえのは非常にエッチ臭いだろ。しかもエッチしたら、ダメなんだぞ。たちの悪いいたづらはアカンのだぞ。眠っている女の子の口に指を入れようとなさつたりすることもいけませんよ。を〜、たまらん、我慢汁、どばどばだろうって。

 これを高校生の分際で読んだら、なぁ〜〜んもおもしろくなかったの。ところが、江口老人にまではまだまだ遠いけれど、50歳を越えて読んだら、真摯な職場で読んでいるにもかかわらず、下半身むずむず。あう〜〜〜っち。

 つくづく年を取るのはいいことだと感じた。あ〜、誰か、悪させえへんから、全裸で添い寝してほし。ただし若い処女に限る。


眠らせられてゐる若い女の素肌にふれて横たはる時、胸の底から突き上がって来るのは、近づく死の恐怖、失つた青春の哀絶ばかりではないかもしれぬ。おのれがをかして来た背徳の悔恨、成功者にありがちな家庭の不幸もあるかもしれぬ。老人どもはひざまづいて拝む佛をおそらく持つてゐない。はだかの美女にひしと抱きついて、冷たい涙を流し、よよと泣きくづれ、わめいたところで、娘は知りもしないし、決して目ざめもしないのである。老人どもは羞恥を感じることもなく、自尊心を傷つけられることもない。まつたく自由に悔い、自由にかなしめる。してみれば「眠れる美女」は佛のやうなものではないか。そして生き身である。娘の若いはだやにほひは、さういふあはれな老人どもをゆるしなぐさめるやうなのであらう。

 しかし娘はあらゆるふせぎをまつたく失はせられてゐる。老人客のために、あはれな老人のためにだ。一絲もつけてゐないで、決して目ざめもしない。江口は自分もなさけなく、心病めるやうに思へて来て、老人には死、若者には戀、死は一度、戀はいくたびかと、思ひもかけないことをつぶやいた。思ひもかけないことであつたが、それは江口をしづめた。もともとさう高ぶつてゐたわけではない。家の外にかすかなみぞれの音がする。海の音も消えてゐるらしい。海の水にみぞれが落ちてとける、その暗く廣い海が老人に見えて来た。一羽の大きいわしのやうな荒鳥が血のしたたるものをくはへて、黒い波すれすれに飛びまはつてゐる。それは人間の赤んぼではないか。そんなことのあらうはずはない。してみると、それは人間の背徳の幻か。江口はまくらの上で軽く頭を振つて幻を消した。