花村萬月『セラフィムの夜』 (1994 小学館)

 「しかし、哲学してしまったら、私の負けだ。あくまで小説。それもエンターテイメント。そんな気でいた。」とは著者のあとがき。
 が、その意気に反して、「半分日本人(パンチョッパリ)」でしかなかったなと思えてしようがない。ポルノにもなれそうでなれない。ハードボイルドにもなれない。哲学にもなれない。この小説自体が

 なぜか? 簡単だよ。君は自分以外の何かになろうとしたからだ。哀れだが、愚かだ。愚者とはどういったものか? 愚者とは自分以外の何かになろうとあがく者のことだよ。
 社会や、そしてシステムは、君をからめとろうとする。君をとりこみ、君から奪い、君を変形させる。君を君以外のなにかに変えようとする。

でしかなかったのかと思える。
 思うに、本質的に男にポルノは書けないのでないか。幾度か出てくる「硬直した充血器官」という表現には強烈な違和感を感じる。この表現が現れる度に勃起しかけたボクのペニスは萎えてしまった。
 ところで「セラフィム」―熾天使とは《「燃える」「蛇」というヘブライ語源を持つセラフィムは、神にもっとも近い御使いとされる。古代、この生き物は天界を飛翔する蛇とされていた。ユダヤ教キリスト教では、彼等は直接神と交わり、純粋な光と思考の存在として、愛の炎と共鳴する》(幻想図書館)だという。ならば、萬月に向かってセラフィムは飛び立ったのだろうか。飛び立つこともなかった、と、断言しておこう。

20011016Tue