谷崎潤一郎『春琴抄』

 中上の『ふたかみ』なんぞを読んだら、やっぱりもう一度『春琴抄』を読み直さなアカンワってことになってしまうでしょ。意外と谷崎の筆の運びは冷静だった。ごく淡々と。いつの間にか『春琴抄』をルーツとするもので、もっと激してるかと思いこんでいたのだが、その淡々としたところ、例えば「白眼の所は堅くて針が這入らないが黒眼は柔かい」なんか逆にすごみがあって怖い。

過日彼女が涙を流して訴へたのは、私がこんな災難に遭つた以上お前も盲目になつて欲しいと云ふ意であつた乎そこ迄は忖度し難いけれども、佐助それはほんたうかと云つた短い一語が佐助の耳には喜びに慄へてゐるやうに聞えた。そして無言で相對しつゝある間に盲人のみが持つ第六感の働きが佐助の官能に芽生えて來て唯感謝の一念より外何物もない春琴の胸の中を自づと會得することが出來た今迄肉醴の交渉はありながら師弟の差別に隔てられてゐた心と心とが始めて犇と抱き合ひ一つに流れて行くのを感じた少年の頃押入れの中の暗黒世界で三味線の稽古をした時の記憶が蘇生つて來たがそれとは全然心持が違つた凡そ大概な盲人は光の方向感だけは持つてゐる故に盲人の視野はほの明るいもので暗黒世界ではないのである佐助は今こそ外界の眼を失つた代りに内界の眼が開けたのを知り嗚呼此れが本當にお師匠様の住んでいらつしやる世界なのだ此れで漸うお師匠様と同じ世界に住むことが出來たと思つたもう衰へた彼の視力では部屋の様子も春琴の姿もはつきり見分けられなかつたが繃帯で包んだ顔の所在だけが、ぼうつと仄白く網膜に映じた彼にはそれが繃帯とは思へなかつたつい二た月前迄のお師匠様の圓満微妙な色白の顔が鈍い明りの圏の中に來迎佛の如く浮かんだ