三島由紀夫『禁色』

 読むスピードが遅い僕にとっては、読了に一ヶ月近くもかかってしまい、けっこうきつかった。でもこういうのこそじっくり読まないといかんよなぁ。斜め読みなんてもったいなくて。きついことはきついが、やっぱり三島の浪漫のエネルギーはすごい。「『禁色』は二十代の総決算」(『図書新聞』1951)と三島自らは言う。
えーっと間違ってるんだけど、読んでいると、老作家俊輔の顔が川端康成になってしまうんですが。

芸術作品には存在の二重性がある、といふのが彼の意見だつた。発掘された古代の蓮の種子が花咲くやうに、永続的な生命をもつと称される作品は、あらゆる時代あらゆる国々の心によみがへる。古代の作品に触れるときに、空間芸術にまれ時間芸術にまれ、その作品のもつ空間や時間の中に囚はれの身になつてゐる間のわれわれの生は、少なくともそれ以外の部分の現在の生を停止乃至は放棄してゐる。われわれはもう一つの生を生きる。ところがこのもう一つの生を生きるために費やされる内的時間は、すでに計量され解決されたものである。一の作品の強ひる驚異がいかほどのものであり、それ以後の人生の見方を変へてしまふほどのものであらうと、われわれは無意識のうちに様式を通じて驚いたのであり、爾後の変化は様式を通じた影響に過ぎない。ところが人生経験や人生の影響には様式の欠けてゐるのが常である。芸術作品はこれに様式を着せ、いはば人生の既製服を提供しやうとするものだといふ自然派の考へ方には俊輔は屈しなかつた。様式は芸術の生れながらの宿命である。作品による内的経験と人生経験とは、様式の有無によつて次元を異にしてゐるものと考へなくてはならぬ。しかし人生経験のうちで作品による内的経験にもつともちかいものが唯一つある。それは何かといふと、死の与へる感動である。われわれは死を経験することができない。しかしその感動はしばしば経験する。死の想念、家族の死、愛するものの死において経験する。つまり死とは生の唯一つの様式なのである。
 芸術作品の感動がわれわれにあのやうに強く生を意識させるのは、それが死の感動だからではあるまいか。俊輔の東方的な夢想はともすると死に傾いた。東洋では死のはうが生よりも数倍いきいきとしてゐる。俊輔が考へる芸術作品とは、一種の精練された死、生をして先験的なものに触れさせる唯一の力であつた。
 内的な存在としては生であり、客観的な存在としては死あるひは虚無に他ならぬこと、かかる存在の二重性は、芸術作品をして無限に自然の美へ近づかせるのである。彼の確信によれば、芸術作品は自然同様に断じて「精神」を持つてゐてはならなかつた。いはんや思想をや! 精神の不在によつて精神を証明し、思想の不在によつて思想を証明し、生の不在によつて生を証明する。それこそは芸術作品の逆説的な使命である。ひいては美の使命であり性格である。
 それでは創造の作用は、自然の創造力の模倣にすぎぬのではなからうか? この疑問に対して俊輔は辛辣な答を用意してゐた。
 自然は生れるものであり、創られるものではない。創造は自然をしておのが出生を疑はせるための作用である。創造はつまり自然の方法だから、といふのが彼の答であつた。
 さうだ、俊輔は方法に化身した。彼が悠一の上にねがつたものは、この美青年の自然の青春を芸術作品として錬り直し、青春のあらゆる弱さを死のやうに強大なものに変へ、彼が周囲に及ぼす諸力を自然力のやうな破壊の力、何ら人間的なものを含まない無機質の力に変へてしまふことであつた。


此岸にあつて到達すべからざるもの。かう言へば、君にもよく納得がいくだらう。美とは人間における自然、人間的条件の下に置かれた自然なんだ。人間の中にあつて最も深く人間を規制し、人間に反抗するものが美なのだ。精神は、この美のかけで、片時も安眠できない。……」
  (中略)
「悠一君、この世には最高の瞬間といふものがある」??と俊輔は言つた。「この世における精神と自然との和解、精神と自然との交合の瞬間だ。
 その表現は、生きてゐるあひだの人間には不可能といふ他はない。生ける人間は、その瞬間を味はふかもしれない。しかし表現することはできない。それは人間の能力を越えてゐる。『人間はかくて超人間的なものを表現できない』と君は言ふのか? それはまちがひだ。人間は真に人間的な究極の状態を表現できないのだ。人間が人間になる最高の瞬間を表現できないのだ。
 芸術家は万能ではないし、表現もまた万能ではない。表現はいつも二者択一を迫られてゐる。表現か、行為か。愛の行為でも、人は行為を以てしか愛しえない。そしてあとからそれを表現する。
 しかし真の重要な問題は、表現と行為との同時性が可能かといふことだ。それについては人間はひとつだけ知つてゐる。それは死なのだ。

(1951〜53 新潮社)
決定版 三島由紀夫全集〈3〉