村上龍 『オーディション』

maggot2004-01-10

 スクリーンではSandra Bullockが逃げ回っている。俺の目はそのスクリーンから何度も右隣に坐った女の右手のウーロン茶の紙コップに移動していた。さっきから目の前の映画よりそのウーロン茶の紙コップに興味が移ってしまっている。きょうで会うのはまだ4回目だ。「これからどうする?映画でも見に行こうか」と誘ってみると意外にもすっと「うん」と言った。ウーロン茶はもうすでに氷はとけきってぬるくなりかかってるにちがいない。喉が乾いたと言うわけでもないけれど、彼女の手の中にあるウーロン茶がほしくてしかたなかった。四十四歳の中年男が一回り以上若い女と映画館に入って、たかがウーロン茶ひとつにときめいているのが奇妙な気がした。そのウーロン茶ちょっとくれると言ったら、どういう反応するんだろう、まして紙コップにはストローが一本つきささってる、そうして俺はそのストローをくわえて、そうすれば間接キスになってしまうじゃないか。そこまで考えている自分が滑稽だった。
 そう考え始めてからどれくらい時間がたっただろう、スクリーンに何台も並んだマックからはSandra BullockのIDが他の女のIDにすり変わっているのを伝えていた。そしてSandra Bullockはまた走り出した。
 思い切って何も言わないでウーロン茶の紙コップに俺は手を伸ばした。ちらっと彼女は俺のほうを見ただけで簡単に紙コップを手渡した。ストローをくわえて吸い込むと、口の中にぬるい感触のウーロン茶が流れ込んできた。あ、これで間接キスだなといまの高校生でさえもかんがえないことを考えている。しばらくまだわずかに残った紙コップを俺は右手で揺すりながら、持て余していた。この紙コップをこのあとどうしたらいいのだろうか。
 カーチェースが始まった、その紙コップを女の前に差し出すと、まるでそれは元あったところにもどらなければならないかのようになにごともなかったかのように戻った。ほっと一息ついたと思う。しばらくすると、女はひとくちウーロン茶を飲んで、俺のほうを向いて「飲む?」というふうにさしあげた。彼女からもう一度俺のところに戻ってきたウーロン茶を飲み干してしまって、空になった紙コップを左手に持つと右手で紙コップを返すかわりにそのまま右手を伸ばして女の手を握っていた。
 じんわりと汗ばんできているのがわかる。重なった手のどちらから発せられた汗かわからない。少し握る手の力を強めると女は俺の手を握り返してきて、俺の人差し指と中指の第二間接をこりこりと指先でなぞり始めた。
 映画が終わった。映画館の外に出ると
「いつも映画見に行ったら女の人の手を握るの」
と女は尋ねた。

からだを流れる血液が蜂蜜になってしまったかのような甘い高揚感で青山を妙に感傷的にした。タクシーのシートに残る山崎麻美のコロンの香りに気づき、手を握るかどうか真剣に迷っていた自分を不気味だと感じていた自分を思いだした。四十二歳の中年男だってそういうときがあるんだ、とその時の自分の甘い高揚感の力を借りて肯定した。

1998/01/10

(ぶんか社 97.6.1)
文庫本