森瑶子『カナの結婚』

 女が、というより、女だけでなくむしろ男が、超えていくためには、どうしても抜け出さなければならないことがある。そしてそれは必ず破壊をともなう。
 森瑶子は、ほんとへたすりゃハーレクイーンにとどまってしまうような食材をもとにして、とびきりのご馳走を供してくれる。男なんて、ほんとアフォだから、こういう素材をバカにしてしまってんだけど。きのうの晩にみたアンドレ・テシネ監督の『深夜カフェのピエール』と妙に重なってしまう。

「一番素敵で一番いいオーガズムが得られるのは、自分でやる時だって」
「第一あの人、夜毎に男を替えるくらい、大勢の男を知っているわ。彼女が言うにはね。一番いいのが自分で、二番目が女で、三番目が上手な男で、四番目が愛している男ですって」
「彼女は人間が好きなのよ。人間の温もりが。相手が男であっても女であってもそれはかまわないっていうの」 「でもあたしね、ナオミを見ていて、うらやましかった。すごく自然にセックスの話をするし、何にもタブーがないみたいだし」
「あたし、自分の手や指で、自分の躰に触れないのよ、そのこと知ってるでしょ」
「そうしたらナオミが言うの。だからあたしはだめなんだって。自分の肉体のすみからすみまで、肉のひだというひだを、自分の指で触れたり確かめたりしなければ?それが性愛の一歩だっていうの」
 でもあたしはだめだとカナは思った。自分の躰もそうだが、女の肉体というものが、すべて彼女自身の母親を象徴するようで、そこに愛撫を加えるなんてことはとうていできない。そしたらナオミはカナは大人になるための性的なアイデンティティが確立されていないのかもしれないと言った。つまり中学や高校生の時に、年上の美しい同性の女生徒に恋愛感情に近いものを、カナは一度も抱かなかったのではないかと。


「カナ、もしきみをここから連れだせる人間がいるとしてもそいつは僕じゃないよ」突き離すといった口調ではなかった。「カナを連れだせるのは、きみを連れ込んだ人間だけだよ」それから彼は長いこと言葉を探すような表情で自分の手を見つめた。「それは多分、慎さんでもないと思うんだ。きみのママでもない。カナをここへ連れ込んだのは他の人間ではなくカナ、きみ自身じゃないかと僕は思う」

(1986 集英社)
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