荒木経惟『すべての女は美しい』

maggot2003-12-17

 副題が『天才アラーキーの「いい女」論』
 写真論なんてのはもう軽く跳び越えてしまって、副題通りの「いい女」論。で、そんなのも超越してしまって、「いい人」論。「いい人」なんていうとマヌケだけれど、例えば、引用した部分を「自分でもバカで、欠点がある存在だとよくわかっている人間が、いい人間=インテリなんだな」ってところに達してしまってる。

 温泉旅館で、目の不自由なマッサージのおばちゃんと話してるうちに、「生まれつき見えないって言うのは、どんな感じなの」ってどうしても聞きたくなったんだよ。
 そしたら「私はまだ諦めてはいませんよ」っていうんだよ。「何が見たいの」って聞いたら、「花とか月」っていうんだよ。それを聞いたときには、もう、枕が涙でグチャグチャになっちゃったね。
 オレが死ぬのは、そのおばちゃんに、「花と月」を見せてからかな、と思うよね。だから、ひとりじゃないんだよ、人間ってね。
 花は枯れ際がいいんだけど、軽く見ちゃいけないね。強引に花を撮って、むりやり作品にしようって人が多いけど、みんな「生きて」いないな。「殺し」てるよね。花は動かないから撮りやすいって思うんだろうけど、ほんとは女よりいうこと聞かないんだよ。
 そのおばちゃんに見せられる花を撮りたいよ。


 色気ってのは、その人の持っている知性とワイセツ感のあらわれでしょ。物事を知っているだけじゃダメで、ワイセツ感があるかどうかが問題なんだよね。

(中略)

 九〇年代には、「きれい」ばかりじゃないものがでてきて面白かったね。やっぱり写真を撮るなら、汚いところがあって、欠点だらけでも生きている、ほんとの女をとらなくちゃね。
 それまでは意地悪さとか、淫らさとかを「きれい」とか「美しい」っていわなかったでしょう。オレはずっとそういうところを撮り続けてるわけだよ。

(中略)

どうせ、そのうち男のほうが女に蔑視されるようになるんだから、そいうときに、男が、自分たちを蔑視しないでほしいと訴えるのは「なにイズム」になるんだろう。女々しいからメメシズムかな。
 でも、男は自分がワイセツだってことを知っているからな。
 だから、自分でもワイセツで、欠点がある存在だとよくわかっている女が、いい女=インテリジェンヌなんだな。


男も女もスケベなところを持っていないと魅力がないじゃない? その魅力を、何も努力せずに持っているのが女なんだから、あるものをあるがままに撮っちゃいけないことはないんだよ。
 女は硬いものが好きなんだよ。おちんちんも硬いほうがいいでしょ。男は逆にやわらかいものがいいわけ。女陰とか、おっぱいとかお尻とかやわらかいところ、グニュグニュしたところがいいんだよね。
 オレはおちんちんを撮るとき、張り切った後の最後にデレっとしてるところを撮るわけ。哀愁があっていいんだよ。情けなくってだらしないところがいい。形を変えて撮ったりね。好きな形になるからね。
 女陰だって、男根だってをかしさがあるでしょう。男根は哀しさも感じるけれどね。男のからだは全体にをかしさがあるんだよ。でも女は女陰がをかしいだけで、ほかの部分はをかしくない。怖さを感じるくらいだよ。

(2001 大和書房)