森瑶子『砂の家』

なんでも錯覚やんか、人はな自分のこと以外はどうでもええと思うてんねん。な、せやろ、せやけどやなぁ、生きて行こ思うたら、死んだらあかんやないか、ほんま、死んだらえっちもでけへんようになるやろ、生きてたらいつかそのうちえっちできる日も来るねんから、そんでやなぁ、誰かほかのんにやなぁ、かもてほしいねんやんか。そんなな、いつでもボクのこと見ててくれてやなあ、せんせ、せんせ、言うてくれる人がやなぁ、そばにおってほしいねん。な、そんなもんやろ。ぎゅうっと両手でやなぁ抱きしめてくれて、にゃんにゃん言うてな、とろとろにしてくれるようなやな、そんな人ちゅうか、女がボクはいてほしいねん、ボクだけちゃうと思うで、誰でもそやと思うで。

全てが錯覚なのである。人は自分以外の人間に対して、真には無関心なのだ。それでいて生きていくためには、他人の優しい干渉が必要なのだ。自分の存在を認め、たえず賛辞してくれる人が、身近に必要なのだ。しっかりと両腕に抱き、赤子をあやすように心身ともに揺すぶってくれる他人が、人間は誰にでもぜひともいるのだ。

1997/09/27
(1989 扶桑社)