谷崎潤一郎『卍(まんじ)』(1931)

 同性愛の話だとは誰でも知ってても、読んだことないやろ。かくいうボクも読んだことなかったのだ。そして読むからには、舊かなで読もうね(笑)
 上手いなぁ、むちゃくちゃ。これまで何度も上手いというのは聞かされてるし、当たり前のことながら評価はでき上がってるんだけれども、これほど上手いとはなぁ。告白文体で貫いてるのもさすが、なんてボクには言うのもおこがましい。しかも1931年っていうたら、昭和の初めでしょ。ようこんなん書けたよなぁ。
 あー最後の最後まで先が見えてこんのだもん、あのどんでん返しには参ったなぁ。でも考えてみれば、なるほどと思えるけどな。ボクは『痴人の愛』よりこっちのほうが格段に好き。

さう云うと光子さんもやつぱり黙つてわたしの顔じーッと視つめたまゝ、ふるてなさつたやうでしたが、ついさつきまでの氣高い楊柳観音のポーズ崩れて、羞かしさうに兩方の肩おさへて、一方の足の先を一方の上に重ねて、片膝を「く」の字なりにすぼめながら立つてなさるのんが、哀れにも美しう思へました。わたしはちょつといたいたしい氣イしましてんけど、シーツの破れ目から堆く盛り上つた肩の肉が白い肌をのぞかせてるのを見ますと、いつそ残酷に引きちぎつてやりたうなつて、夢中で飛びついて荒々しうシーツ剥しました。わたしも眞劍なら、光子さんも氣イ呑まれたと見えまして、此方のするまゝになりながら、もう何事も云われませんなんだ。たゞ兩方が憎々しいくらゐな激しい目つき片時も外らさんと相手の顔そゝいでました。わたしはとうど思ひ通りにしてやつた云ふ勝利のほゝゑみを、−−冷やゝかな、意地の惡いほゝゑみを口もとに浮かべて、體に巻きついてるものをだんだんに解いて行きましたが、、次第に神聖な處女の彫像が現れて來ますと、勝利の感じがいつのまにやら驚歎の聲に變つて行きました。