谷崎潤一郎『金色の死』

40ページほどの初期の短編。のちの谷崎の耽美世界の原点。それ以上に、三島由紀夫が心に描き出そうとした、夢想した、藝術の出発点。ということを聞いていたから、行き着く先はおのずとわかってしまったのだけど....

(1914)

扉を開けて這入つて行つた私は、暫く燦爛たる光と色と湯氣との爲めに瞳を射られて茫然と立ちすくみました。湯槽は大理石の床を地下へ三四尺切り下げたもので、槽と云ふよりも池と云つた方が適當な程の廣さでした。池を取り巻く四方の壁は羅馬時代の壁畫や浮彫で一面に装飾され、楕圓形を成した汀のところどころには、叉しても例のケンタウルが一間置きぐらゐに並んで居るのです。而も其の顔は凡べて岡村君の泣いたり笑つたり怒つたりして居る容貌を持ち、背中に跨つて鞭撻つて居る女神達は、悉く生きた人間ばかりでした。海豚の如く水中に跳躍して居る何十匹の動物を見ると、其等は皆體の下半部へ鎖帷子のやうな銀製の肉襦袢を着けて、人魚の姿を真似た美女の一群でありました。私達の様子を見るや否や、彼等は一様に兩手を高く掲げて歡呼の聲を放ち、銀の鱗を光らせながら汀の敷石に飛び上がって怪獣の足元に戯れるのです。
その外にまだ、牛乳、葡萄酒、ペパアミントなどを湛へた小さな湯槽が三つ四つあつて、其處にも人魚が遊んで居ます。最後に私達は、人間の肉體を以て一杯に埋まつて居る「地獄の池」の前に出ました。
「さあ、此上を渡つて行くんだ。構はないから僕の後に附いて來たまへ。」
かう云つて、岡村君は私の手を引いて一團の肉塊の上を蹈んで行きました。

中央公論社谷崎潤一郎全集第二巻