三島由紀夫『假面の告白』(1949 河出書房)

三島由紀夫『假面の告白』

  

 左が「ゼノアのパラッツォ・ロッソに所蔵されているグイド・レーニの「聖セバスチャン」」。右がのちに三島自らがモデルとなり篠山紀信撮影により『血と薔薇 創刊号』の巻頭となった写真。『假面の告白』第二章にはグイド・レーニの「聖セバスチャン」の仔細な説明があって、いかに三島がこの絵に衝撃を受けたか思い測れる。ただ、どういうわけか、三島モデルの写真では矢が一本多く刺さっている。

その繪を見た刹那、私の全存在は、或る異教的な歡喜に押しゆるがされた。私の血液は奔騰し、私の器官は憤怒の色をたたへた。この巨大な・張り裂けるばかりになつた私の一部は、今までになく激しく私の行使を待つて、私の無知をなじり、憤ろしく息づいてゐた。私の手はしらずしらず、誰にも教えられぬ動きをはじめた。私の内部から暗い輝かしいものの足早に攻め昇ってくる氣配が感じられた。と思ふ間に、それはめくるめく酩酊を伴って迸った。……


すべてこのままの状態で、二人がお互ひなしに過せない月日を送るだらうといふ錯覺が、いつのまにか私の居心地のよさから導き出されてゐた。もつと深い意味では、それは私にとつて二重の錯覺だつた。別離を宣告してゐる彼女の言葉が、今の逢瀬の虚しさを告げ、今の喜びの假象にすぎぬことをあばきたてて、それが永遠のものであるかのやうに考へる幼い錯覺を壊すと同時に、たとへ別離が訪れなくても、男と女の關係といふものはすべてこのままの状態にとどまることを許さないといふ覺醒で、もう一つの錯覺をも壊したのである。私は胸苦しく目醒めた。 どうしてこのままではいけないのか? 少年時代このかた何百遍問ひかけたかしれない問ひが叉口もとに昇つて來た。何だつてすべてを壊し、すべてを移ろはせ、すべてを流轉の中へ委ねねばならぬといふ變梃な義務がわれわれ一同に課せられてゐるのであらう。こんな不快きはまる義務が世にいはゆる「生」なのであらうか? それは私にとつてだけ義務なのではないか? 少なくともその義務を重荷と感じるのは私だけに相違なかつた。

三島由紀夫『假面の告白』(1949 河出書房)
初版本完全復刻版