村上龍『はじめての夜 二度目の夜 最後の夜』

maggot2003-11-07

 これってタイトルと構成でとても損をしている。このいかにもって感じのタイトルではちょっとパスしとことなるわ。それにレストランの料理で章立てしてるの、これもずいぶんです。《茨城産 仔牛とチンゲン菜のプレゼ シャンパン風味》をいをい、やめてくれ。あんたにゃ鉄鍋餃子が一番似合ってる。ここんところはコスモポリタンなんて似非ハイソ雑誌が持ちかけて、料理にからめて3ページでお願いできますかって。そんなん断れちゅうねん。大きなお世話ですが....
 さてと、そういう枠組みであるに関わらず、話はかの名作『69』に勝るともちょっと劣るがね(笑)、『69』が高校時代の話であったのに対して、これは中学時代の話。そのうち小学校時代までひけらかしてくるかもな(笑) それを、中学時代に同級生だった女と20何年ぶりかで会って、回想に耽ってるようじゃどうにもならないのですが、文庫版の村山由佳の解説を借りれば「何かが確実に失われてしまったことを思い知らされて、ひどくせつなかった。それでもなお、読後に残るのは喪失感ではないのだ。」
 村上龍って作家、ボクも実はそうなんだけど、多分にオンナ入ってる。ボク自身が、このシチュエーションがわかる、体験してしまってる年になった分、ちょっとはめられたなって気が残ってしまうのであった。

「大人になっていろいろ考える力とか経験とか持ってから、ヤザキさんのごたる人に会いたかったって、ヨシコちゃんは手紙に書いとった、さっきね、泣いたとはね、ヤザキさんが言うたやろ? こういう瞬間はすぐに終わる、だから大切なんだって言うたやろ? うちはスーッて何かから自由になった気のして、うちの息子とか家庭とかそういうものやなかよ、ヤザキさんに負けてくやしかとかそういうことからね、自由になったごたる気のしてね、でもすぐその後、その後っていうかほぼ同時にね、何かが脱けていったあとに別の何かにつかまえられてしもうて、あ、楽になったなって思うたらすぐに新しか荷物ば渡されたごたる感じ」
 それで泣いたの?
 アオキミチコはうなずいた。
「悲しかった、うまく言えんけどね」
 悲しむことなんか何もないじゃないか、と言おうと思ったのだが、言えなかった。言葉を捜していると、アオキミチコは私の手を握った。強く握ったりしたら骨が折れてしまいそうなくらい細い手首、アオキミチコの手のことをずっとそういう風に思っていたのだが、部屋からの弱い灯りに照らされた手は少し違っていた。同時に自分の手も見ることになって、私は溜め息をつきそうになった。二人の手は中学生の頃とまるで違っていたのだ。それはまぎれもなく四十代の男女の手だった。


 十五歳で中学を卒業してから、私は自分の欲望に従って、さまざまなことを経験し、さまざまなものを手に入れた。アオキミチコに言わなければいけない、今、そういう思いに私は捉われている。あと一時間の間に、彼女に何を言えばいいのだろう。センチメントに支配されて、あの頃はよかったな、というようなことが口から出そうになる。だが、確かに、あの三年間は特別だった。何かがあったのだろう? あの中学校の三年間に、特別なものとして、私は何を得たのだろう。
 基準だ、と思った。ある何かのためだったらここまでは我慢できる、あるいは、ある何かのために自分の力をすべて使ってここから逃げ出さなくてはいけない、ある何かを誰かに伝えたい、伝えなくてはならない、アオキミチコはその「何か」を代表し、象徴していた。きれいで、とても手の届かない何か、この世の中にはそういうものが確かに存在することを、アオキミチコを通して、私は中学時代に知ったのだ。それは、その後の私の生き方に、基準を与えた。


「あと三十分で世界が終わりっていう時に、思い出して確認できるような楽しかったこと、今までにたくさんあった?」
 オレの場合は、悪いけどそういうことの連続だ、私がそう言うとアオキミチコは笑いだした。
「どがんしたらそういう風に生きられるとやろか? 教えてくれん?」

(1996 集英社)
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